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2014年9月 6日 (土)

[考察] 俺TUEEE系作品とトラウマ克服型主人公──ソードアート・オンライン論(あるいは川原礫論)

 私がこの記事を書くきっかけとなったのは、アニメ版「ソードアート・オンラインII」を見て、改めて「シノンって、ソードアート・オンラインのヒロインにしては、結構ヘビーな過去を持っているなあ」という感想を抱いたことです。アスナやリーファ、シリカやリズベットと比べると、シノンの「過去に銃で人を殺した経験」という設定の重みはケタが違う。ファントム・バレット編で、なぜシノンはそこまで重い過去を背負わなければならなかったのか。

 もうひとつのきっかけとしては、原作である文庫版「ソードアート・オンライン14 アリシゼーション・ユナイティング」の感想を、ネットで読んでいるときでした。大半のユーザは面白かったという感想を書いていたのですが、たまに「キリトがぶれすぎ」「俺はもっと強いキリトが読みたいんだ」という文句とも注文とも言えるような感想にあたることがあります。確かにSAO14巻のキリトは、アリスの処遇やユージオとの関係、あるいはアンダーワールドの運命とか背負うべきものが多すぎて、自分の立ち位置に迷っているフシが伺えましたが、個人的にはいつものように十分面白いと思っていただけにそういう感想に出会ったことが意外でした。

 「ソードアート・オンライン」は、いわゆる俺TUEEE系(あるいは無双系)と呼ばれる作品の1つと言えるでしょう。この俺TUEEE系作品は00年代後半から10年代にかけて発展し、現在ではアニメ・マンガ・ラノベの主流となっている作品群でもあります。たとえば、現在一番人気のあるラノベシリーズの1つである「とある魔術の禁書目録」や、現在アニメ放送されている「魔法科高校の劣等生」もまた、この系統に含まれるでしょう。
 そして俺TUEEE系作品が描いているのは、「力こそ正義」です。つまり、他と比べて圧倒的な、あるいは唯一の特異な能力をもった主人公が、その力を以って悪役の悪事を止める、そういう爽快感を書いているのが特徴です。

 そのため、俺TUEEE系作品には、いくつかの共通したフォーマットがあります。
 ①主人公は他と比べて圧倒的な、あるいは唯一の特異な能力を有している。
 ②主人公は能力・人格ともにほとんど完成している。
 ③悪役は、能力・人格ともに主人公側から見ると一段劣る存在(つまりは小物)として描かれることが多い。

 ①と③は説明するまでもありませんね。主人公がその力で悪役を叩きのめして正義を実現させるのが俺TUEEE系なのですから、必然的に主人公は切り札(ジョーカー)的な扱いとなり、悪役側は主人公側からみると格下の扱いになります。作品設定上周りの人物にはレベル0とかウィードとか格下のようにみなされていることは関係ありません。あくまでその作品上における総合的な実力や作品設定的な能力の扱いが優れているかどうかが問題になります。
 ②についてですが、俺TUEEE系作品においては主人公が立つことを決意すれば必然的にその時点で勝ちが決まるため、能力的には負けて自分の未熟さを思い知るという機会がほとんどない。そのため能力を成長させる機会が少なく、逆に言えば能力を成長させる必要がないほど完成されていると言うことになります。また、人格的に完成しているというのは主人公に迷いが少ないということであり、「俺はもしかしたら間違ってるのかもしれない」などと心に迷いを抱いているようでは、悪役と対峙して間違いを正すなんてことはできません。「とある魔術の禁書目録」で上条さんが悪役にSEKKYOUを食らわすことができるのも、彼の人格や価値観が安定していて、迷いが少ないからです。
 ちなみに、ここから派生する特徴として、主人公は自分が成したことを、大したことじゃないと思い込んでいるというのも特徴の1つに挙げられます。他の登場人物から見れば自分の窮地を救ってくれた、あるいは世界の危機を救ってくれた恩人であると思われていても、主人公としては降りかかる火の粉を払ったぐらいにしか考えていない。上条当麻がインデックスや御坂美琴の窮地を救ったときもそれを恩に着せるようなことはしませんし、困っている人間を助けるのは当たり前だぐらいの感覚しか持ち合わせていない。また、司波達也が香港マフィアの日本支部を潰したのは、妹の深雪に手を出したからという極めて個人的な動機からでした。

 そう考えると「ソードアート・オンライン」も、俺TUEEE系の要素が強い──少なくとも、①と③の要素は満たしています。主人公の桐ヶ谷和人はゲームにおいては無双の能力を持ち、更にはシステムから認められて二刀流というユニークスキルを与えられている。またアインクラッド編の茅場晶彦はともかく、フェアリィ・ダンス編の須郷伸之やファントム・バレット編の死銃(デス・ガン)には小物臭が漂っている。ところが、俺TUEEE系作品の主人公としてみると、話が進むにつれてキリトは迷いが多くなってくる。すなわち、②の要素のうち、能力的にはともかく人格的には迷いが見られてくるようになるのです。
 たとえば、フェアリィ・ダンス編で須郷伸之と対峙したとき、ゲームマスター権限を持つ須郷に対して1プレイヤーでしかないキリトは自分のことを「鍍金(メッキ)の勇者」だと自嘲している。あるいは、フェアリィ・ダンス編では自分がSAOで、レッドとはいえ3人のPCをPKしたという事実を忘れていたことを自責している。原作14巻のアリシゼーション編においても、キリトは自分がデスゲームをクリアした英雄であるという自己イメージを保つのを負担に考えている描写がある。これらは、俺TUEEE系作品においてはかなりずれた表現になる。正義を成したはずの勇者が正義の味方であることを負担に思うようでは、悪をやっつけるなんてことはできないはずなのです。

 ところが、俺TUEEE系作品を離れて同じ川原礫先生の別作品を読むと、キリトの悩みなんてカワイイと思えるほどのトラウマ持ちが次々と登場してくる。
 例えば、「アクセルワールド」の主人公、有田春雪はデブでチビ、スクールカーストの最底辺に位置して常に苛められていましたし、登場当初は自己評価の低い、卑屈で内向的な性格の持ち主でした。黒雪姫はレベル10に到達するために赤の王を騙まし討ちし、さらには自分のレギオンを消滅させてしまうほどの大敗を喫してしまったことがトラウマになっていました。黛拓武は先に加速世界に入っていたのはいいがバーストポイントを失いかけて暴走してしまうし、倉嶋千百合は幼馴染との関係が変わってしまっていることに心を痛めていました。そして、作者の新シリーズ「絶対ナル孤独者」の主人公・空木ミノルは、自分がいない方が周りの人間が上手くいくと思い込んでいるほどに強烈なトラウマを抱え込んでいます。
 つまり、川原礫先生の作品群においては、トラウマを持つキャラが結構多い。そう考えるとむしろ、シノンのようなトラウマ持ちキャラは、川原キャラとしてはむしろ珍しくもなんともないとも言えるのです。

 私は、川原礫先生の作家としての資質は、俺TUEEE系作家ではなくむしろトラウマ克服型の物語を作るタイプの作家であると考えます。そう考えるとシノンが結構ヘビーなトラウマ持ちキャラになったことや、シリーズが進むにつれてキリトがブレてウジウジと悩みだしてしまうことに納得がいくからです。
 ここでトラウマ克服型の物語とは、主人公をはじめとする登場人物があらかじめ心に欠損を抱えていて、その欠損を埋めることが物語のテーマとなる作品とします。物語のタイプとしては決して珍しいものではなく、「新世紀エヴァンゲリオン」や「NHKにようこそ!」に見られるように90年代後半から00年代前半にかけて流行ったタイプの作品です。また、冒頭や始まった時点で主人公が失ったものを取り戻すというのは王道フォーマットの一つですが、トラウマ克服型ではそれが心の欠損(コンプレックス)であるというのが特徴です。

 ところが、トラウマ克服型の物語には大きな問題があります。
 一つは、物語が暗くなってしまうこと。心の問題を扱っているだけに心理描写を描くことは避けられませんが、主人公はもともと心に問題を抱えているため、どうしても描写が暗くなる。内向的で暗いタイプの主人公は、なかなか人気がでにくいのです。
 もう一つは、心の問題の克服を描くのは、実は非常に難しいということです。どのくらい難しいのかというと、「新世紀エヴァンゲリオン」では後半になるにつれて構成が破綻し、最終2話ではサイコセラピーのような心理描写だけになってしまいましたし、「NHKにようこそ!」の作者・滝本竜彦は、「NHKにようこそ!」で主人公がひきこもりから立ち直るための結論を適当に描いてしまったことが原因でスランプに陥ってしまったというような趣旨の発言をしています。そのぐらい、トラウマ克服型の物語を書くのは難しい。「アクセル・ワールド」や「ソードアート・オンライン」でシリーズが進むごとに話の展開が遅くなるのは、戦闘描写が濃密に描かれていることも一因ですが、それ以上にトラウマを克服するためのストーリーを説得力があるように描くということが、いかに大変であるかということを表しているものとも思えるのです。

 ただし、「ソードアート・オンライン」は川原礫先生の作品としては、むしろ俺TUEEE系としての要素の方が強い。主人公のキリトは当初から人付き合いが苦手で、パーティではなくソロプレイ中心の人物として描かれていますが、こんなものはトラウマ持ちというほどのものでもありません。そんなキリトにアスナという相棒ができ、やがて彼女との(システム上の)結婚によって本来の性格である人懐っこさを取り戻したキリトが、その力でもって黒幕と対峙するという筋書きにはトラウマ克服型の作家としての資質が垣間見えますが、それも話の全体像からみるとキリトの主人公としての強さを引き立たせるためのスパイスの範疇でしょう。
 しかし、「ソードアート・オンライン」の続編を書くにあたって作者は、実はキリトにはこんなことがあったんだよとSAO時代の外伝をいくつか書きましたが、そのうちの1つ「赤鼻のトナカイ」で、作者はキリトに強烈なトラウマを負わせてしまいます。これはいったん完結したはずの物語の続きを描くにあたって、本来トラウマ克服型の話を得意とする作者がどうしても必要としたことだったのでしょう。シリーズが進むにつれてキリトが悩みだし、あるいは話がブレてしまうのは、話を続けていくためにはむしろ必然だったのです。

 そして、俺TUEEE系作品とトラウマ克服型の主人公は、実は非常に相性が悪い。主人公が悪役をバッタバッタとなぎ倒す爽快感が俺TUEEE系作品の醍醐味なのに、その肝心の主人公が延々ウジウジと悩んでいては話にならないのです。「ソードアートオンライン14巻」の感想で「キリトがぶれ過ぎ」「俺はもっと強いキリトが読みたいんだ」という人がでてくるのも、それが俺TUEEE系の作品として読んでいたのならむしろ当然のことなのです。

 それでは、俺TUEEE系作品とトラウマ克服型の主人公は両立できないかというと、そんなことはありません。主人公の目的がトラウマの克服であり、俺TUEEE系作品が力で悪を倒すことをフォーマットとしている以上、トラウマを克服した主人公が本当の力に目覚めて、その力を以って悪と対峙するというプロットが成立するからです。というか、「アクセル・ワールド」の1巻がまんまそのとおりの内容です。主人公の有田春雪はそのコンプレックスから黒雪姫の好意を素直に受け取れず、黒雪姫を否定してしまう。黒雪姫は自分の好意が本当であることを証明するために、目前の事故から春雪をかばって意識を失ってしまう。春雪は黒雪姫を守るために事件の悪役に立ち向かい、そこで加速世界のアバター・シルバークロウとして、他の誰もが会得していない飛行能力を手に入れるのです。
 そして「ソードアート・オンライン」の続編も、話が進むにつれてその傾向が強くなっていきます。SAO時代のトラウマをぶり返して戦えなくなったキリトは、そのたびごとに周りのキャラの励ましや叱咤をうけて強さを取り戻し、悪と対峙していくのです。その度に女性キャラが多くなっていくのはご愛嬌というべきか。ただ俺TUEEE系要素の強いキリトの場合は(トラウマ克服型主人公としての場合を除いて)優柔不断な要素が少ないため、本命ヒロインは原則としてアスナ一択であり、やさしさだけが取り柄のハーレム系主人公とはその意味では一線を画すところが違いますね。

 それにしても、トラウマ克服型のストーリーを得意とする川原礫先生が、最初に書いたのが俺TUEEE系作品である「ソードアート・オンライン」だというのは面白いですね。作家として書き続けていくうちに、俺TUEEE系から内容が深化して主人公の内面を描写することに長けてしまったというのが正確なところでしょうか。

 最後に、川原礫先生のこれからの活躍も楽しみにしつつ、本論を閉じたいと思います。

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