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2013年5月 2日 (木)

[考察] セカイの終わりと日常の始まり──00年代を代表するアニメとしての涼宮ハルヒ論

 2011年に「魔法少女まどか☆マギカ」(2011)が放送されたとき、私はリアルでその放送を観ることができました。その先を読ませないダークなストーリーや意外性のある展開を観て、この作品をリアルタイムで観ることができた幸運を噛み締めたことをうれしく思ってます。またテレビ版を再編集して描き直した劇場版が上映されたときも、それを観にいったほど気に入った作品でもあります。

 ネットでも展開途中でさまざまな考察があげられたり、東日本大震災で放送中断という憂き目にあっても盛り上がりが下がらず、最終回が放送されてからも考察本が何冊も出版されたりと、その盛り上がりはかつての「新世紀エヴァンゲリオン」(1995-1996)のときの狂騒を思いださせるほどでした。実際に、一部評論家からも「ロボットアニメにおける『エヴァンゲリオン』に匹敵する」と言われるほどの評価を得られていたことを覚えています。

 本当に「まどか」が「エヴァ」に匹敵する評価を得られるかどうかは今後の展開次第だと思いますが、もしそうだとすれは1970年代を代表する「宇宙戦艦ヤマト」(1974-1975)、80年代を代表する「機動戦士ガンダム」(1979-1980)、90年代を代表する「新世紀エヴァンゲリオン」に続いて、このまま行けば10年代を代表するアニメ、少なくともその候補ぐらいにはなるだろう──と思ったところで、00年代を代表するアニメが存在しないことに気づきました。
 (ちなみに、60年代を代表するアニメとしては「鉄腕アトム」(1963-1968)が挙げられますが、これは週一で放送するテレビアニメのシステムを確立したという意味では別格中の別格に挙げられる作品でしょう)

 実際、00年代というのはヒット作そのものは多いけど、社会現象とまで呼ばれた作品には恵まれていません。00年代は社会現象アニメの空白期ではないかと思ったところでネットを検索してみたら、00年代を代表するアニメとして「涼宮ハルヒの憂鬱」(2006)を挙げているサイトや掲示板がいくつか見つかりました。もちろん異論も多いのですが、それを見たとき、私はなるほどと思いました。

 なお、ここでいうその時代を代表するアニメとは、それまでのアニメの常識を覆した展開で評価を得られ、その後のアニメのあり方を変えた作品とします。ただ単純に大人気を得られたというだけなら、「『鉄腕アトム』以来の大ヒット」と言われた「Dr.スランプ アラレちゃん」(1981-1986)や世界的な大ヒット作品になった「ドラゴンボールZ」(1989-1996)の方が、視聴率がとれず打ち切りの目にあった「ヤマト」や「ガンダム」よりふさわしいはずなのですが、「アラレちゃん」や「ドラゴンボール」は80年代や90年代を代表するアニメとはされていません。

 また、ここでいう00年代を代表するアニメとしての「涼宮ハルヒの憂鬱」とは、2006年版の方を指します。2009年版の方の評価は、その当時無数に放送されていた良作アニメのうちの1本に過ぎませんでした。しかし2006年版の方は、明らかにその後のアニメのあり方を変える作品だったと思います。

 無論、「涼宮ハルヒの憂鬱」が、「ヤマト」や「ガンダム」、「エヴァ」と同格であるとは言いません。さすがにそこまで社会現象を起こした作品であると評価するのは行きすぎでしょう。
 しかし、こう言うこともできます。「ハルヒ」は確かに「エヴァ」に匹敵するとは言いがたい。しかし、「美少女戦士セーラームーン」(1992-1997)に匹敵する程度にはエポックメイキングな作品ではあったと。

 「セーラームーン」は確かに不遇な作品で、90年代を代表する作品を2つ挙げろといわれたら、前半が「セーラームーン」、後半が「エヴァンゲリオン」になるという評論家がいたことを覚えています。もし直後に「新世紀エヴァンゲリオン」が発表されなかったとしたら、おそらく「セーラームーン」が90年代を代表する作品になっていたことでしょう。
 では、「セーラームーン」の何がエポックメイキングだったのか。それは、「戦闘美少女」という類型を確立したことで、この作品以降に発表された魔法少女ものが、バトルものメインになってしまったということです。
 もちろん「セーラームーン」以前にも戦う美少女というキャラクターはいました。しかしその描写はバトルものの主人公を美少女に置き換えたものが大半でした。バトルものでは通常、勝負の駆け引きに長けたほうが勝ちます。そのバトルを翻案し、どんなバトルでも最後に必殺技を放てば勝つという戦隊もののフォーマットを取り入れた。主人公側は確実に相手を倒せる強力な必殺技を持っているというバトルもののご都合主義を、女の子の夢と希望を叶えるという魔法そのものがご都合主義である魔法少女ものと組み合わせてしまいました。その結果、女の子のための戦闘系魔法少女ものというフォーマットを新たに作ってしまったのです。
 「セーラームーン」はその後の魔法少女もののあり方を確かに変えてしまいました。そして、それと同じ程度には、「涼宮ハルヒの憂鬱」はその後のアニメのあり方を変えてしまったのです。

 「新世紀エヴァンゲリオン」は90年代を代表するアニメとしては誰もが認めるところでしょう。その特徴としては、謎が謎を呼ぶ裏設定を主軸にすえた作風と、主役キャラの内面を描く後半部のストーリー展開、そしてなんと言っても、キャラの内面と世界の命運が直結するセカイ系の嚆矢となった作品だということでしょう。
 このアニメの大ヒットによってアニメそのものを販売するという製作委員会の形式が成立し、メディアミックス展開によって以後多数のアニメ作品が制作されることになりました。しかし、「エヴァ」はあまりにも成功しすぎてしまった。アニメが多数制作されるのは良かったとしても、「エヴァ」の成功の原因を誤解して表面だけ真似ただけの作品まで多数制作されてしまうようになったのです。

 この、一部には「ポストエヴァンゲリオン症候群」と呼ばれた現象は、私個人としては「エヴァの呪い」と読んでいますが、とにかく番組を録画して台詞の一言一句を解析しないとストーリーの完全理解ができない、いわば、作品の表面上のストーリーからは伏せられている裏設定ばかりに凝った作品とか、あるいはリアルな社会の理不尽さを描こうとしてストーリー的に意味のない会議のシーンを延々と描いたりとか、主人公の心情を必要以上に追い詰めたりとか、そういうどこかずれたような「エヴァもどき」の作品が90年代後半にはあふれるようになってしまったのです。
 もちろん、「機動戦艦ナデシコ」(1996-1997)や「勇者王ガオガイガー」(1997-1998)のように、「エヴァ」とはまた違ったエンターティンメントに徹してヒットを記録した作品もあります。しかし、これらの作品でも、当時の流れに乗って作品の裏に膨大な裏設定を定義してそれに基づいて展開してたりしており、完全に「エヴァ」の流れから無縁であるとはいえませんでした。
 (「機動戦艦ナデシコ」は放送時期の関係上、「エヴァ」から直接の影響を受けたとは思えませんが、シリーズで説明しきれないほどの裏設定の存在やヒロインの1人のキャラ造形などから「エヴァ」と同じ流れの上にある作品であるとはいえます)

 要するにこの時期のSFアニメは、「エヴァもどき」であろうが「アンチエヴァ」であろうが、「エヴァンゲリオン」の存在を意識しないでは制作できないほどの影響をアニメ界に与えてしまったのです。

 もちろんこの「エヴァの呪い」も時間が経つにつれてどんどん薄れていき、いずれは「エヴァ」にとらわれることなくSFアニメが制作できる時期がきたことでしょう。しかし、最終的に「エヴァ」の呪いからアニメ界を開放し、セカイ系の流行を終わらせた作品こそがこの、「涼宮ハルヒの憂鬱」なのです。

 「涼宮ハルヒの憂鬱」が、「エヴァンゲリオン」から続くセカイ系の系譜に位置する作品であることは論を待たないでしょう。たった1人のヒロインの精神に世界の命運が直結している基本設定もそうですが、ヒロインの1人の長門有希のキャラ造形が綾波レイから続く無口キャラの系譜だったりと随所に「エヴァ」を意識したような設定が見受けられます。

 そのストーリーですが、主役のキョンのもとにメインヒロインの涼宮ハルヒが現れることから始まります。彼女はキョンがあきらめていた宇宙人、未来人、超能力者を捜し求め、ついにはそれらを見つけることを目的とした同好会以下の集団「SOS団」を設立してしまう。彼女が団員として集めてきた長門有希、朝比奈みくる、古泉一樹は実は本物の宇宙人、未来人、超能力者であり、彼らは口をそろえて、ハルヒには本当に超常現象を引き起こす未知の力があるという。それを打ち明けられたキョンは最初は信じなかったものの、それぞれ関連する事件が起きて信じざるを得なくなり、また自分こそがハルヒに対する鍵であると言われていっぱいいっぱいになっているところへ、ついには世界が崩壊するほどの大事件が起きてしまい──

 これだけ見れば確かにこの話はセカイ系の系譜を受け継いでいます。しかし、この話のオチでは、キョンはハルヒにキスをすることで、世界の再構成からハルヒを現実に戻すことに成功するのです。つまり、今まで積み上げてきた世界の秘密もハルヒの謎も宇宙人や未来人や超能力者の思惑も何もかもすっ飛ばして、この話を単なる男と女のラブコメディ、ボーイ・ミーツ・ガールで話を終わらせてしまったのです。

 この作品がヒットしたことで、アニメ界はそれまで抱えてきた「エヴァの呪い」から完全に解放されたのです。膨大な裏設定も作中に散りばめられた謎も関係ない。登場人物の内面を世界の命運に直結させる必要もない。「涼宮ハルヒの憂鬱」がセカイ系の流行を完全に終わらせてくれたからこそ、それ以降のSF系アニメ作品は「エヴァ」をまったく意識する必要がなく、作品を構築することができるようになったのです。
 (もちろんいったん成立したセカイ系というジャンルがなくなったわけではありません。これからもセカイ系のアニメ作品は作られると思いますが、しかしそれは、「エヴァ」を必ずしも意識する必要はないのです。)

 もうひとつ、「涼宮ハルヒの憂鬱」の特徴として挙げられるものがあります。それはこの作品がセカイ系の系譜を受け継ぎながら、同時に日常系の側面も持った作品でもあるということです。

 日常系の作品の嚆矢とされているのは「あずまんが大王」(2002)で間違いないのですが、いかんせんその登場が早すぎた。「あずまんが大王」はそのヒットにもかかわらず、次に日常系を代表する作品が登場するのは「らき☆すた」(2007)まで待たなくてはなりませんでした。そしてそれ以降、日常系の作品は「みなみけ」(2007)、「生徒会の一存」(2008)、「けいおん!」(2009)、「日常」(2011)など日常系を代表する作品が次々と作られるようになっていったのです。
 それだけを見ると「らき☆すた」は日常系の作品をアニメ界に定着させた功労者なのですが、ただ「らき☆すた」とていきなり登場したわけではありません。「らき☆すた」の前に「涼宮ハルヒの憂鬱」が登場しており、「らき☆すた」はその流れを受けて登場した作品でもあるのです。

 そしてそれは、「涼宮ハルヒ」シリーズの作品構造においても言えるのです。
 原作の第1巻「憂鬱」の事件で閉鎖空間から戻ってきたハルヒは、それ以降SOS団の団員とバカ騒ぎをすることに力を注ぐことになります。宇宙人や未来人、超能力者といった非日常的な存在を求めていたハルヒが、SOS団とのバカ騒ぎで満足してしまうようになったのです。日常系の特徴が物語性の排除や萌えキャラの配置によるキャラクター性の描写にあるとするならば、原作の、特に短編における話は日常系の要素がより強くなっていったと言えるでしょう。セカイ系の世界観から日常系の世界観へ徐々に軸足を移していくのが、「涼宮ハルヒ」シリーズの基本構造なのです。

 余談ですが、最近の原作で「涼宮ハルヒ」シリーズがなかなか発表されないのはそれが理由の1つではないかと考えています。シリーズ第1巻では非日常的な存在を求めていたハルヒは、シリーズを重ねるにつれてSOS団とのバカ騒ぎ、つまり日常系のような出来事で満足していくようになる。もし「涼宮ハルヒ」シリーズが順調に発表していったのなら、その内容は日常系の作品のような、何の進展もドラマ性もないバカ騒ぎを起こした話が大半を占めるようになっていたはずです(そしてそれをやっているのが、スピンオフマンガの「涼宮ハルヒちゃんの憂鬱」シリーズでしょう)。それを避けて「涼宮ハルヒ」シリーズらしく世界の命運に関わるような方向に話を持っていこうとするなら、外からむりやりハルヒに関わってくる勢力を呼んでくるしかない。それをやったのが「分裂」や「驚愕」であり、その構成はレギュラーキャラの枠組みをある程度崩す必要があるため、話の構成にはかなりの力量を必要とすると思われます。原作者の谷川流がスランプに陥ってしまうのも、無理からぬことだろうと思います。

 「涼宮ハルヒの憂鬱」は、それまでアニメ界を覆っていたセカイ系の流行を終わらせました。そして、SOS団の変わらない日常を描くことで、日常系の作品が興隆する礎を築いたのです。
 セカイの終わりと日常の始まり──それこそが私が「涼宮ハルヒの憂鬱」を00年代を代表するアニメに推す一番の理由です。

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